『ファーストキス』
数十分後───
深夜、玄関のドアが開く。
「・・・・・・帰ったぞ、マリア」
だが返事は無い。
「・・・・・・?待ちくたびれて先に寝てしまったのか?」
家中の明かりは既に消されている事から、そう判断するのが賢明だろう。しかし───
「・・・・・・・・・もし誰かに乱暴されていたら・・・・・・」
マリアの事になると、クロストルは途端に小心者となる。
真剣に愛するが故に、依頼などで遠くへ出かける度に彼女の身を常に案じ続けていた。
一緒にいようといまいと常に平静を装うその裏では、何かと良からぬ妄想が頭をよぎっていた。彼女と電車に乗った時も
(・・・・・・マリアの表情がよろしくない・・・まさか、痴漢!?)
実際は満員電車の暑苦しい空気に少し気分を悪くしていただけだったのに、あろうことかクロストルは彼女の後ろに居たしがない会社員の腕を容赦なくひねり上げてしまったのだ。
勿論、後でマリアにひどく叱られたのは言うまでもない。
それ以来なるべく早計な判断をしないよう心がけてきたが、やはり心配なものは心配だった。
「マリアー・・・・・・マリアー?本当に寝ているのか?」
近所迷惑にならぬよう、なるべく小声で呼びかける。しかし返事は返ってこない。
「別に良いんだが・・・・・・ここまで家中真っ暗闇だとどうも・・・」
これまた安眠妨害にならぬよう、静かに階段を上っていった。そして自分の部屋の前に立つ。
「・・・・・・」
普段、クロストルとマリアの部屋は別々となっている。これも彼の女性への苦手意識が影響している。
「・・・俺の部屋だから、誰もいるはずは無い・・・・・・・・・」
大丈夫だと自分に言い聞かせつつドアノブに手をかける。そして少しずつ手首を捻り、静かに開けた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
大丈夫だと思っていたのに。クロストルの嫌な予感は的中していた。
(明らかに・・・・・・何者かの気配が・・・)
目の前に広がる暗闇の空間のどこかに、誰かが居る。
殺気こそ感じないが、不安を煽るには十分な要素だった。
(踏み出すべきか、否か・・・・・・・・・)
少し考えると、クロストルは決断した。
(行く!!)
思い切って部屋の中へ足を踏み入れる。
行く先はベッドだ。
クロストルの部屋はやや特殊な構造となっており、枕元の傍に部屋全体の明かりを点けるスイッチが備え付けられている。
理由は、寝込みを襲われた時すぐに敵の姿を確認するのと、状況把握による生存率向上を図るためである。
が、今回に限ってはそれが仇となってしまった。
万が一この暗闇の中で、スイッチにたどり着く前に襲われたら非常に危険だ。
そもそも自分の部屋は外出前に施錠してあるはず。
この侵入者はどうやって忍び込んだのだろうか?
「・・・・・・・・・・・・・・・!!」
気配を感じる方角へ云い得ぬ殺気を放ちながら、じりじりとベッドの枕元へにじり寄る。
あと少し。あと少しでスイッチを入れられる。
「!!」
ようやく枕元の傍までたどり着いた時、クロストルの動きが止まる。
恐ろしいことに気がついてしまったのだ。
侵入者は、ベッドの上にいた。
それも、自分のすぐ傍に。
あまりにも部屋が暗すぎるので、クロストルは侵入者との距離間隔が掴めていなかった。
思ったよりも間合いが近い。近すぎる。
背中から侵入者の視線が冷たく突き刺さる。
今すぐスイッチを入れて臨戦態勢に入ることも可能だが、その前に先手を取られるかもしれない。
武器なら背中に背負ったスナイパーライフルを手に取り、すぐに殴りつける事も出来るだろう。
だが、相手が既に武器を持っていた場合は?
それが刃物であれば、こっちが銃を振り回す前に首を掻き切られるのがオチだし
銃器なら即座に撃ち抜かれて死ぬだろう。
どうする?
俺はどうしたらいい?
そもそもマリアは無事なのか?
それ以前に目的は何だ?
ただの強盗にしては、何かが変だ
俺を狙う暗殺者?だったらなぜ敵意を返さない?
俺がこうして躊躇している間にも、命を奪うチャンスなどいくらでもあるはず
何だ?
何なんだ?
お前は、誰なんだ?
お前は───
「!」
侵入者が、動いた。
やる気か。
根拠無き死を覚悟したクロストルは拳を握り、身構えた。しかし───
「!?」
クロストルは何が起きたのか分からなかった。
まず、いきなり胸倉を掴まれた
俺はとっさに殴り飛ばそうとした
しかし間に合わなかった。殺られる。そう思っていた
だが・・・・・・
なぜ?
なぜ、この侵入者は
「んっ、んぐぅっ・・・・・・・・・?!」
俺の唇を 奪っているのだ ! ?
「・・・・・・・・・・・・・・・!!」
すぐに離れようとするが、相手の両腕できつく抱きしめられ離れることが出来ない。
理解できない
理解できない
理解できない
こいつは何だ、ただのキス魔か?変態か?
何より恐ろしいのが、相手の性別が分からない事だった。
それがクロストルにとって一番の恐怖だった。
それ以前に男か?女か?
男だったら悲惨だ。俺はそっちの世界に引きずり込まれていくのか
冗談じゃない、俺には彼女がいるんだ
だが、女であればもっと悲惨だ
マリアのためのファーストキスが失われてしまった
ショックだ
あまりにもショックが大きい
柄にも無く泣きたい
相手の舌が俺の口内に無理矢理入ってくる
唾液も、舌も、互いのものが熱く絡みつく
もういやだ
本当に泣きたい
いや、既に俺はうっすら涙を浮かべている
身も心も犯された気分だ
こいつはどこまで俺を貪れば気が済むんだ
だが、少なからず悪くない気がしてきた
何となく、このキスは甘い味が感じられた
これで男ではないのは確かだ
女性とのキスはこんなにも甘いものなのか
ファーストキスを失ったのは残念だが、命が目的で無いだけまだ良い方だろう
これで相手がマリアだったら、ずっとこうしていたい
だから
せめて
せめて、いい加減俺の口から離れろ!!
「・・・・・・・・・」
クロストルの心の声が通じたかのように、相手は重ね合わせていた唇を遠ざけた。
抱きしめていた腕も開放し、クロストルはその場でへたり込む。
そして、唇を奪った謎の侵入者の口が開いた。
「まさか、ここまでやっても分からないなんて・・・・・・私よ、クロストル!」
「え!?」
クロストルの思考が一瞬停止し、様々な情報が頭の中を駆け巡った。
わずかな混乱から目が醒め、今自分の前にいる人物がマリアその人だと理解できた。
「ま、待ってくれ・・・・・・とりあえず、明かりを・・・・・・」
かすかに濡れた唇を拭い、頭を抱えながら立ち上がると傍のスイッチを入れた。
部屋の明かりが点き、目の前にはいつものマリアの姿があらわになる。
「な、何でだ?マリア、どうして・・・・・・」
クロストルはまだ理解が出来ない。その前に一連の出来事が把握しきれていない。
「いつまで経ってもキスすらしてくれないから、私から行動を起こしたの!でもクロストルの事だから絶っっ対嫌がると思って・・・・・・」
「それでか!それでわざわざこんな事してまで、俺とファーストキスを・・・」
ようやく全てが理解できた。が、何か弄ばれたような不快感が心の内に吹き出ていた。
「そういう事!もしかして怖がらせちゃった?」
「・・・・・・ば、馬鹿!俺がそんな・・・・・・」
恥ずかしくなったのか、クロストルは頬を赤らめ必死に否定する。
「いいのいいの。これで私達の仲も一歩前進した訳だし。大体、クロストルがもっと積極的だったら、ねぇ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
クロストルが途端に黙り込む。
「さて、夜も遅いし私はもう寝ちゃうね!」
何かを考えている顔だったが、マリアは気にも留めず自分の寝室へ向かおうとした。
とても腹立つ
俺が積極的じゃなかったからこういう事になったのは分かる
どう考えても、俺は完全に馬鹿にされた
まるで見下された気分だ
悔しい
自分からキスが出来ないからって馬鹿にされた自分が腹立たしい
「それじゃクロストル、おやすみ・・・」
屈辱だ
こうなったらマリアを見返してやる
もう馬鹿にされてたまるか
俺がそんな小さな男ではない事を証明してやる
「待て」
クロストルがマリアの腕を掴んだ。乱暴とまではいかないが、やや力加減に欠ける。
「な、何よ?」
いきなりの行動にマリアは戸惑う。
「もしかして、怒ってる・・・・・・?」
「・・・・・・ああ」
クロストルは腕を掴んだまま無表情で答えた。
「ごめん・・・・・・」
「許さない。今更謝られても許さない」
「じ、じゃあ、どうしたら許してくれるの・・・・・・?」
「キス」
「へ?」
「俺はやられたらやり返す主義だ。じゃなきゃ俺のプライドが許さない」
「!!」
クロストルは不意に彼女の唇を奪い、強引にベッドの上に押し倒した。
「今夜は帰さないぞ。朝まで説教だ」
結果的にマリアの行動は、ずっとくすぶっていたクロストルを積極的にさせたのだった。
なお、彼の言葉通り本当に朝まで説教を続けていたのは誰も知らない。
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